旅公演日記
旅公演日記2009秋
Touch~孤独から愛へ
作:ライル・ケスラー●演出:浅野佳成/関東・東北・関西・中国地方ほか
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トリート: | 緒方一則 |
フィリップ: | 磯矢拓麻(劇団 芋屋) |
ハロルド: | 酒井宗親 |
肝っ玉おっ母とその子供たち
作:ベルトルト・ブレヒト●演出:浅野佳成/九州地方
<キャスト> | |
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肝っ玉: | 辻由美子 |
料理人: | 柳瀬太一 |
従軍牧師: | 中村滋/田中悟 |
イヴェット: | 渋谷愛/仲村三千代 |
アイリフ: | 鈴木亮平(劇団 芋屋) |
スイスチーズ: | 佐藤勇太 |
カトリン: | 稲葉礼恵/白根有子 |
農夫の妻: | 保角淳子 |
徴兵係・書記ほか: | 白石圭司 |
曹長・兵士ほか: | 高橋征也(劇団 芋屋) |
兵士・大砲ほか: | 栗山友彦 |
肝っ玉九州公演も今年で二年目となりました、アイリフ役を演じさせて頂いております鈴木亮平です。
今回も一回一回、常に舞台上の感覚や観客との感覚を意識しながら、自分なりにアイリフという男を見つめながらの旅でした。私の中で、九州を回ってる旅と、アイリフという男、そして『肝っ玉おっ母』という舞台を模索する旅、が同時進行している、そんな感覚にとらわれることもしばしばありました。
芝居というものは、本当に奥が深く、私は二年間同じ役を演じたことは今までありませんでした。それでもまだやはりアイリフという男を演じる上でまだまだ何かが足りない、そんな思いを日々感じています。
きっとその感覚は役者をやり続けていく以上、消えないものであると思います。しかし、公演を見ていただいた生徒さんの反応や話を聞いて、自分はやはり演じて良かった、舞台を見せることができて良かったと感じ、また多くの人々に舞台というものを感じて欲しいと、特に今回の旅では強く感じました。きっとそれは生徒、一人一人と舞台を通じての対話、これが自分の中でうまく感じることができたその結果なのではないかと私は思います。
まだまだこれからも私は舞台を通じて、悩み、苦しみ、表現し、そして観客との対話を通じてそれを自分の喜びに変える旅をし続けていくのだろうと感じた九州公演でした。
『肝っ玉おっ母とその子供たち』の旅公演は終盤を迎えた。10月2日から始まったこのツアーは、九州全域の中学校・高校で上演を繰り返し、先生方の芸術鑑賞に対する想いに触れ、たくさんの生徒たちと出会い、東京の拠点劇場へ帰り、今年の風を締めくくる凱旋公演へと向かう。
私たちが持ち帰るのは、公演後声を掛けてくれた生徒さん達の言葉、先生方から受けた信頼、ホームページに書き込んでくれた嬉しいコメントの数々、そして実際その土地その土地で出会ってきた人たちとの交流の実感だと思う。
なぜ『肝っ玉おっ母とその子供たち』を子どもたちが観るのか。それは、その言葉にカモフラージュされたよそよそしさがないからだと私は思う。「偉い人の言うこと聞いてると、戦争はいいことのように言うけど、あの人たちだって馬鹿じゃない。結構儲けるために戦争やってるよ。でなきゃどうして、私たちが協力するかい」と肝っ玉は言う。そのために子どもを3人も失っていく事実があるにせよ。
私たちの社会では、報道も含めて、様々な事柄が隠蔽され、当たり障りのない言葉に翻訳され、子どもたちもまたその社会の構造を徐々に感じているだろうと思う。「戦争の実態を考えることができた」という感想を終演後生徒さんから頂いた。「戦争は必要なこと」「戦争は良くない」というその裏では、様々な見えない利益や真実が渦巻いているのかもしれない。大切なのは今という時代を生きている私たちが、同じ地点でその見えない事柄に目を向け、何を考えられるかだ。だからこそ私たちは一回一回の公演を必死に彼らに向き合わなければいけないと思う。子どもたちが真実を見極めようとする視線は鋭い。
各学校の出会いの中でつくられてきたこのツアーの息吹を、東京にも吹かせることができたらといま思っている。
肝っ玉おっ母の初演は、1941年第二次大戦中の、スイス北部チューリヒで幕が開いた。戦時中の当時、特にナチスの支配下にあるヨーロッパでは、演劇は厳しく制限されたり、規制されていた。そのような時代にブレヒトは、どのような舞台を創り、観客と対峙していたのだろうか。
風の舞台、旅公演の場で僕が大切にしたいのは、演じる側のメッセージを伝える(押し付ける)のではなくて、観客が自分で考えられるように、問題を提示することだ。
今、肝っ玉を演じる僕たちも、観客の高校生や中学生も戦争とは直接関わってはいない。
しかし、民衆の叫びや、階級の闘争の時代に生きてきたブレヒトが描いた肝っ玉や、様々な登場人物の姿とセリフをとおして、今の時代を生きる僕たちも、思考することが、大事なのではないだろうか。
風の旅公演、そしてレパートリーシアターの公演で、今の時代にどのような問題が提示されるか、観客と共に考える舞台を創って行きたいと思う。
『肝っ玉おっ母とその子供たち』の旅公演に初めて参加した。
これまでも、その報告は聞いていたし、私自身も中・高校生たちと共に客席で観る機会はあったけれど、これほどまでに真剣かつ、笑いが起こる場に立ち合うことになるとは……。
まず幕開けで「1624年、春、都市に近い街道筋……」娼婦イヴェットが新教軍が募兵している状況を語り、次に舞台中央の高い場所での徴兵係の第一声に客席の注目が移り、次の瞬間、“肝っ玉おっ母”と父親の違う3人の子どもたちの《戦争相手に大もうけしてやろう…!》という意欲にみなぎった明るくたくましい歌とともに幌車が現れる。
その後に続く、おっ母と徴兵係たちのやり取りとかけひき―
その時幕の裏にいる私にもこれから何が起こるのかを注視している客席の刻々の反応が伝わってくる。
―子どもたちを戦争に行かせない為に知恵を使い、策を練って行動していこうとするのだが結局は3人とも死んでしまう。最後ひとり取り残された母は(懲りもせず…?)幌車を曳いて軍隊を追っていく。
今の中・高生たちが17世紀の宗教戦争に巻き込まれたこの家族をどうみているのか。
もちろんひとりひとりその興味と関心は違うはずだが、その場の事態を見逃さずまいとしている集中力はすごいと思う。だからこそ色んな質の笑いも随所に起こってくるのだろう。
20世紀、2度の大戦を経験したブレヒトが戦況下で生きる庶民を描くことでその時代の問題を暗示し、次の時代をつくる人間たちへ未来を託す―。
この戯曲が書かれて70年たった今、一回一回の上演の場でこれからを生きていく若い人たちと共に、彼の問題提起を受け取っている。
「あとから生まれてくる人たちに」―物語の最後に出演者全員で語るブレヒトの詩に真剣に向き合ってくるまなざしに出会い、私たちもまた真顔になっていく。
“ビエンナーレKAZE2009”開催期間中『星の王子さま』『肝っ玉おっ母とその子供たち』『Touch~孤独から愛へ』の3作品が相次いで旅公演に出発した。
今旅は“ビエンナーレ”の最後を飾る作品『パンダの物語』で彼女役を演じている渋谷愛との連携playでイヴェット役を演じている。昨年の春旅以来、約1年半振りのイヴェット、そして、久々の九州巡演でどんな出会いが出来るのか、とても楽しみでもあり、改めて身が引き締まる思いで始まった。
思いがけず、新型ウイルスが猛威をふるい、泣く泣く私たち人間側が折れるという事態に見舞われながらも、しっかりと向き合い実現させた1回1回の公演は、その場に確かな結び付きと、個々の出会いを生んだ。
それは、一時東京に戻り『Touch』を見た時も同様に起きていた。
明日、私はみんなよりひと足先に千秋楽を迎える。
当たり前の事を当たり前とせず、見慣れたものを見慣れたものとしないブレヒトの視線。そこに挑発というメスを入れた時見えてくるものは何か、共に「後から生まれてきた者」として、客席と一緒に見つめていきたい。